眼精疲労が良くなれば人生が変わる。鍼灸師小宮の眼精疲労克服体験談

【目次】

  1. 章「エピローグ
    ~眼精疲労社会の到来
  2. 章「幼少期編
    ~九死に一生を得た体験第
  3. 章「青年期編
    ~難病を背負って生きる
  4. 章「社会人編
    ~重度のうつ病を発症第
  5. 章「鍼灸師編
    ~希望のはりに未来を

第1章「エピローグ」~眼精疲労社会の到来

眼精疲労が良くなれば人生が変わる、、、。少々、大げさな表現ですが、ひどい疲れ目・眼精疲労が原因で日常生活に支障を来している人は少なくありません。実際に、眼精疲労で苦しむ人々の症状は、とても深刻です。

この10年で、私たちの日常生活(ビジュアルライフ)を取り巻く環境は、激変しました。一番はスマートフォンの急速な普及です。電車に乗った時、乗客のほとんどがスマホを凝視ているという光景は、今や珍しくはありません。

また、毎日明け方までゲームに熱中する若者や、SNSを常にチェックする大人など、あらゆる世代が目を酷使する時代です。さらに、コロナ禍による社会的な変化によっても、私たちの目は大きな負荷を受けています。リモートワークや在宅ワーク、PCによる遠隔授業やリモート講習など、職場環境や学習環境が様変わりしようとしています。

眼精疲労が怖いのは、決して症状が目の問題だけにはとどまらないことです。肩こりや頭痛はもちろん、眼精疲労から自律神経を失調しする人も急増しています。以下は、私の眼精疲労体験です。

第2章「幼少期編」~九死に一生を得た体験

今では、オアシスはり灸治療院の院長として日々、患者さんを治療できる程に、心身ともに気力にみちております。しかし、これまでの歩みは決して順風なものではありませんでした。皆様の中にも、過去に辛い体験をして、現在や将来に希望を見いだせないでいる方も少なくないと思います。

長野県のごく一般的な家庭で生まれ育ったわたくしは、8歳の時に生死をさまよう大病を患いました。

私が小学校2年生の時の記憶です。その年の冬は、雪が少なく比較的な穏やかな天気が続いていました。その日は朝から雨が降っていました。朝はいつも通り学校まで2Kmの道のりを歩いて登校し、午前中は授業を受けていました。しかし、途中で今までに感じたことのない倦怠感が生じました。放課後の掃除のとき、机に椅子を乗せられないほど、重たいと感じたのを今でも覚えています。保健室で少し休ませてもらうことも考えましたが、何とか一人で家まで歩いて帰りました

夕方、家でぐったりしていると、仕事からかえってきた母が、私の体調の異変にきづきました。

◆42度の高熱、振り切れる体温計

それからすぐ、顔が真っ赤になり、パンパンに腫れあがりました。熱を測ると体温計が降り切れてしまい、42度を超えていました。

何度、熱を測っても体温計は振り切れており、顔の状態は、どんどんひどくなっていきました。親戚の伝手もあり、何とか総合病院に、夜遅くに受診することが出来ました。救急外の小児科の先生は、私を見るなり「即入院が必要」と判断し、深夜、そのまま小児科に入院しました。

◆刻一刻と悪化していく身体

翌日、目が覚めると身体のいたるところに異変を感じました。顔から、みるみる赤い発疹が全身に広がっていきました。

目や鼻、口の中、喉の粘膜もただれてしまいました。あの時の、自分の姿を、今でも鮮明に覚えています。

私の症状について、先生も診断をつけることができませんでした。おたふくかぜ、川崎病、感染症など、様々な病気が疑われましたが原因の特定は難航しました。

それからしばらく経ってから、母は先生から「こうなる前に、何か薬を飲んだのであれば、その病院にいって、飲んだ薬を聞いてきてほしい」と言われました。当時、母は先生の言葉が何を意味するのピント来なかったそうです。

確かに、本来なら薬は、病気を治すものです。

たった数粒の薬が、命を脅かすことがあることを誰が想像できるでしょうか。

最終的に、私の症状は、全身の皮膚粘膜が焼けただれたようになるスティーブンス・ジョンソン症候群という病気であることがわかりました。

現在、スティーブンス・ジョンソン症候群は、患者会の働きによって国が指定する難病(特定疾患)に認定されています。スティーブンス・ジョンソン症候群は、医薬品の副作用により全身の皮膚粘膜に強い炎症を起こす病気です。発症は100万人に1名とごくまれですが、一命を取り留めても目や肺に重い後遺症が残る場合があります。目の障害として重症ドライアイや角膜混濁、肺の障害では労作性呼吸困難を伴う閉塞性細気管支炎が代表的です。

生命の持つ自然治癒力は計り知れない。

私は、死の淵から蘇りました。紙一重の差で生き抜いたのです。

人間の生命力は、すごいものです。

鍼灸師となって患者さんを治療する立場になった今、自らの体験があるからこそ、患者さんにも、同じことが言えるのです。治ると信じることが大切。絶対にあきらめちゃダメなんです。

あの時の、体験は、私に確信を与えてくれました。病を治すのは、人が本来持っている自然治癒の力、生きようとする力なのです。

第3章「思春期編」後遺症との闘い

入院は2カ月に及びました。奇跡的に一命を取り留めましたが、目と肺に重い後遺症が残りました。

以来、日常的に襲ってくる目の激痛と、視力を失うことへの不安の中で生きて参りました。時には、なぜ自分がこんなめに、と心を病むこともありました。これからの人生、目と肺に後遺症障害を背負ったたまま、生きて行かなければならなくなったのです。

この病気は涙腺が障害され、涙が出なくなってしまうことがあります。私の場合は、ごくわずかですが涙腺の機能が残存しました。そのため、かろうじて日常生活を送れる視力が保たれていました。

ただ、常に眼の表面が痛い、いつも目が真っ赤、物が非常に見えにくく、光がまぶしいという状態で、小中高と生活を送っていました。

◆涙は目の生命線

涙は、泣いたとき・笑った時に出ると思われる方もいますが、私たちの目の表面は通常、薄い涙の層で保護されています。ですから涙が少なくなると、とたんに目は傷だらけになってしまいます。私にとって、涙は目の生命線。もし、涙が完全に出なくなってしまったら、、、。

人生は過酷なものです。その後、私の涙は徐々に減っていき20代中頃には、ついにゼロになりました。

◆子供のころの「眼精疲労体験」

私は大病以後、小学生のころから「ひどい肩こり」に悩まされていました。常に目の周りに不快感があり、字を見ると途端に首・肩が痛くなりました。いつも全身倦怠感があり、ひどいときには頭痛と吐き気で食事もろくに取れませんでした。ですから、学校から帰って来ると、何もする気になれず、寝込んでいる毎日でした。おこずかいをもらうと、薬局に湿布を買いに行ったものでした。

今思うと、それは全て「目の疲れ・眼精疲労」が原因だったのだと思います。ただ、当時は眼精疲労という認識がなかった為、「なんでこんなに身体がつらいのだろうか」、と子供ながらに憂鬱な日々を過ごしていたのを覚えています。

◆目の痛みを理解されない苦しみ

足を骨折すれば松葉杖をつきますので周囲が心配してくれます。しかし、目が辛いという状況は、周囲にはあまり理解してもらえませんでした。目が痛いから寝込んでいるのに、周囲からは「怠けている、努力が足りない」などと言われ、精神的にも追い込まれていました。

教室の光はまぶしく、黒板の文字はぼやけて見えない。教科書の文字をみようとすると、ひどい頭痛と吐き気に襲われる。運動は、走ると呼吸困難になるので、ほとんどできませんでした。

病気のせいで夢をあきらめる、眼精疲労のせいで夢をあきらめる。それは、とても辛いことです。

第4章「社会人編」~重度のうつ病を発症

一人暮らしをしながら学生生活を送り、一般企業に就職しました。当時は、パソコンもそれほど普及していませんでしたが、それでも常にひどい眼精疲労に悩まされていました。それでも生きていくには、働かなくてはなりません。

生活費と治療費を稼ぐために働く日々。働けば働くほど目の症状は悪化する、という悪循環に陥っていました。そのような中、やがて日常は破たんします。心身の疲労から「うつ病」を発症

20代の中ころ、重度の自律神経失調症、うつ病のため、一日の大半をベットの上で過ごすという時期がありました。不眠、耳鳴り、めまい、頭痛、動悸、全身の関節や筋肉痛みで立ち上がることもできませんでした。また、焦り、不安から、横になっていても、心が休まらない状態が続きました。

もちろん、病院で検査をしても異常は見つからず、医師からは心療内科の受診を勧められました。心療内科では、睡眠薬、抗精神薬による治療を受けましたが、一向に良くなる感じはありませんでした。それどころか、薬を飲み続けることへの不安、副作用に対する懸念から、さらに体調を崩し、最終的には1日15種類もの薬を服用するという日々が続きました。いわゆる「重度のうつ病」の状態でした。

第5章「鍼灸師編」~希望の鍼でに未来を託す

先が見えない生活の中、知人より鍼治療で重病が良くなったという話を聞き、実際にその鍼灸院を紹介してもらいました。その先生こそ、我が鍼の師であります。鍼治療との出会いがあったからこそ、今の私があると言っても過言ではありません。

その鍼灸院は遠方でしたが、週に3回、通い続けました。はじめは電車に乗ることも出来なかったのでタクシーを利用していました。しかし治療を受けた帰りは、不思議と活力が湧いてきて、電車でも帰宅できる状態となっていました。

◆治療初期は一進一退の状態

少しづつですが、夜も眠れるようになって、食欲も沸いてきました。薬の量も徐々に減り、1年あまりで薬なしで生活できるまでになりました。

ただし、鍼治療を継続して受けていく中で、眼精疲労の症状は、どうしても良くなりませんでした。このままでは、私は一生働けない。それならば自らが鍼灸師になり、自分で自分の眼精疲労を治すしかない。という思いに至ったのです。

◆自らの人生を鍼に託す

幸い日本には各都道府県に盲学校があり、盲学校の専攻科で鍼灸マッサージの国家資格を取得することができます。わたしは筑波大学付属盲学校鍼灸手技療法科に入学し、鍼灸師の国家資格を取得しました。

盲学校には、生まれながら目が見えない人、いつしか目が見えなくなってしまうかもしれない難病を抱えた人、事故などで突然視力を失った人など、実に様々な境遇の仲間と出会いました。皆の前向きな姿に、生きる勇気をもらいました。

おわりに

現在、鍼灸専門院を開業して12年目を迎えましたが、患者さんは延べ7万人を越えています。わたしたちの眼精疲労治療の技術は、苦しみの中、決してあきらめず、鍼によって希望を見出した経験から生みだした渾身の技術です。

経絡治療は私の人生を変えてくれましたし、目の鍼がなければ、私は目を開けていることすらできません。 鍼治療は、これからもっと多くの人に必要とされる医術だと思います。